こころの栞

こころ明けまして

親鸞「みんなに尋ねるが、夜が明けて日輪が出るのか、日輪が出て夜があけるのか?どちらかな」
門弟「夜があけた後、日が出ます」
親鸞「それは違う。日輪が出るからこそ、夜の闇が晴れて明るくなるのだ。それと同じように、無碍光の日輪に照らされてはじめて我々の無明という闇が晴れ、明るい信心いただけるのだ。」

こういうエピソード(取意)が「口伝鈔」に載っています。単純なようで、実に大事なことを親鸞聖人は教えておられます。「夜が明けたから太陽が出る」と多くの人は思いこんでいますが、それは、地球が自転しているという現代の科学の科学の知識から云っても道理に合いませんね。太陽の光が届いたところから夜(闇)は明けていくのですから。

太陽の光は今、仏の光に譬えられ、仏の光が至ればこそ、我々愚痴・まよいの凡夫の心の闇は破られるのだ。ちょうど、曇鸞大師という名僧が「千年の闇室に、ひとたび光が至れば闇は消えて明るくなる」と云われているのと同じです。

「 無量寿経」には「仏の教えを信じないものは…心は暗く閉じ塞がり(心塞意閉)、愚かに迷っているばかりである」と書いてあります。またそれと対象的に「今、釈迦牟尼世尊(お釈迦様)にお会いして無量寿仏(阿弥陀仏)のことを聞かせていただいたものは、喜ばないものはひとりもなく、みな心が開かれて、くもりが除かれました(心得開明)」とも書いてあります。

要は心が暗い、真実が見えない、愚痴・無智のものは、まず、如来の光に遇うことが先決。暗い中で、手探りするように、迷いの心をどれだけふりまわしてみても、闇は闇。しかし、そこに仏の光・仏の喚び声・仏の教えが届けば、中は一瞬にして明朗になるのです。浄土からの光・念仏に遇うこと・そのみ教えを聞くことが、「夜の明ける」ために第一に必要なことなのだと教えられています。

「明けましておめでとう」というのも、「如来の光に夜が明け、こころが明るくなりまして、おめでたい」というのが本義ではないでしょうか。

「こころ明けまして」(こころが開かれて)こそ「おめでたい」のだと、独り味わっています。

越前市 了慶寺住職(群萌同人)
藤枝宏壽



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