こころの栞

生きがいの創造③

仏になるとはどういうことか。
「仏」とは「覚者」=「悟った人」である。また「自覚覚他」という言葉もあるから、「自覚」=「目覚め」、悟ったお方は「覚他」=「人々を目覚めさせるお方」でもある。それでは「覚者」は、何に目覚めたのか?

それは「自己」「道理」「法」に目覚めたのでありましょう。
自分とはどんな存在かに目覚め、自分の人生に満足し、他の人にもそのような世界があることをさりげなく示して生きる「満足大悲の人」になる。それが、この世で「仏」に「成る」ということでありましょう。

世相の移り変わりの中で、私たちは誰もが「私の人生、これで良いのか」とその人生を見直し、究極の帰るべきところに向かって生きてゆく。私は何を拠り所にして、この人生を生きようとしているのか?と、反省していきてゆく。

このように人生のポイント、ポイントで見直していく。この生きかたが必要なのでありましょう。そして人生最期のときに、「私の人生、これでよかった」と、自分の人生に満足して、わが子や孫に「この生きかたを守って、生きていっておくれ」とさりげなく示して、息を引き取る。そして、周りの人に「ハイ、ハイ、お祖父ちゃん、人生の大切なことを教えてくださってありがとう」と言って送ってもらえるか。このように自分自身にたずねてみる必要があるのでしょう。

この最終的判断の基盤に立つことが、この「覚」であり、その人は「悟った人」「目覚めた人」「満足大悲の人」と最終的に認知されるのであります。

そうなると、この「仏に成る」、これを求めて生きることが、いま私に、いや、私たちに求められているのであります。

親鸞聖人は、
本願を信じ、念仏申さば仏になる(歎異抄)
と言っておられます。

「念仏」の「念」は拠り所にするという意味です。だから「自己」=「エゴ」を中心として生きる「念自我」の生きかたではなく、仕事も「エゴ」を中心として頑張るのではなく、仕事の中で、「念仏」の生きかたを考え、この「仏に成る」ということを考えていこう。わが子と語る場合でも、これがあるのとないのとでは格段に違う。そのために、「本願を信じ、念仏申す」ということが必要になるのであります。

家庭教育は、家庭「共育」。
親も育ち、子も育つ。そのような観点から、子どもに接していく。そのことによって「居きがい」「行きがい」「生きがい」が良くなるのではないだろうか。

越前市 光福寺住職
佐々木 徹悟


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